【ハルキストの部屋】第4段 作家村上春樹について 【連載】

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こんちわ、Shunです。村上春樹の長編小説を全部読んだことある自称ハルキストです。彼の好きな作品は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』。

第4回目も、村上朝日堂の内容に触れて、作家村上春樹が20代をどう過ごしたかを紹介したい。

まず、彼の経歴について述べたい。1949( 昭和24)年、京都市生まれだ。7年かけて早稲田大学第一文学部卒業。1979年に『風の歌を聴け』でデビューし、群像新人文学賞を受賞した。

今回は、引越し好きな村上春樹の20代の学生時代のことについて述べたい。

村上春樹は、学生の時に、目白、練馬、三鷹、千石、国分寺に住んでおり、著書でも彼自身は引っ越しが好きだと述べている。大学を卒業してからは、専業小説家になるまで、千駄ヶ谷に住んでいた。専業小説家になってからは、千葉県船橋に住んでいたこともある。現在、村上春樹は、渋谷区の南青山のどこかのマンションに暮らしており、彼の事務所も南青山にある。

村上春樹が、一浪を経て早稲田大学に入学したのが、1968年のこと。彼が、実家の神戸から東京へ上京して、初めて一人暮らしをした場所が、目白だ。なぜ目白のなのかというと、目白に早稲田大学の学生寮があったからだ。彼は、そこで一人暮らしを始めた。

第4回目の連載では、村上春樹が暮らしていた目白の学生寮での話を紹介したい。

時は一九六八年、まさにドンパチの時代だし、こっちだって血の気の多い年代だから頭に来ることはいっぱいあった。右翼学生がソーカツしにくるっていうので枕の下に包丁置いて寝たこともある。

村上春樹著 新潮社出版 村上朝日堂 p60

だいたい夜になると目白の坂を下って早稲田の界隈で飲んだくれる。で、必ず酔いつぶれる。その頃は酔いつぶれずに飲むなんてこという器用なことはできなかった。酔っ払うと誰かがタンカを作って寮まで運んでくれた。タンカを作るには実に便利な時代だった。というのはそこらじゅうにタテカンがあふれていたからである。「日帝粉砕」とか「原潜寄港絶対阻止」なんていう看板を適当に選んでむしりとってきて、そこに酔っ払いを載せて運ぶのである。これはなかなか楽しかった。

村上春樹著 新潮社出版 村上朝日堂 p62

村上春樹が目白に住んでいたときに、右翼の学生に脅迫されたことがあるらしく、枕元に包丁を置いていたとあるが、筆者は、この事実を知って驚いた。なぜ、右翼の学生と揉めてそういうことになったのかは書かれていなかったが、口論でもしたのかと推察できる。

村上春樹が、早稲田大学に在学していた頃は、以前の連載記事で述べたが、学生運動が盛んな時期であった。日米安全保障条約(安保条約)に反対する運動、いわゆる安保闘争が行われていたこともあり、左翼の学生が抗議活動や革命運動をしていたりしていた時期である。

そのため、大学街の至るところに学生運動で使われた立て看板が落ちていたため、そのような立て看板を村上春樹と彼の仲間たちが使用し、飲み会で酩酊状態の仲間を運んだ。村上春樹自身も酔っ払い、立て看板に寝かされて、運ばれたらしい。

それから夜中に日本女子大の看板を盗みにいったこともある。そんなものを盗んだって仕方がないんだけど、なんとなく欲しくなって外しにいったら警官にみつかって追いかけられた。考えてみたらあのころは週に一回は警官に職務質問をされた。時代も荒れてたし、こちらの人相も悪かったのだろう。

村上春樹著 新潮社出版 村上朝日堂 p62

真面目で、誠実そうなタイプの現在の村上春樹からは想像しづらいが、若かった頃は、盗みを働こうとしたらしい。週に一度も職務質問をされていた事実が、本当なら、当時の村上春樹は今の彼とは違って、人相、格好、行動などが好印象ではなかったのかもしれない。学生運動が盛んであった時代が起因している可能性もある。







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